高校を卒業した後、何をするのかはっきりとは決まっていなかった。あれこれと考えては父親に報告をしに行ったがいい顔をしてもらえなかった。手に職ではないが「何か技術を身に着けないと食ってはいけないぞ」と言われ父親のすすめで電気関係系の資格を取ろうと考えた。就職の条件が資格を取ることであった。昼働き、夜、専門学校に通った。そうして第二種電気工事士の資格を取った。三年で一人で現場を任されるようになることを会社から言われていた。ちなみに中学、高校では電気なんて興味も持っていなかったし、よく理解もしていなかった。少なくとも三年は努めてみようかと思った。
大卒で入って来る人達とは最初から給料も違った。「なんとか負けない仕事をして一人前にならないと」と考えた。年功序列、学歴重視、給料もそうだった。そうして三年が過ぎ、なんとか一人で現場を任されるようにはなった。
そうして転機が訪れた。二十五歳のときであった。結婚をしたばかりでもあった。取引先にベテランの責任者の方から毎日、書類、図面に関して駄目出しを食らった。何が駄目なのかを何度尋ねても教えてもらえなかった。現場は自分しかいないから自分で考えるしかなかった。図面に百点満点はない。自分では出来ているつもりでもその方から見ると駄目なのであった。やり直しの日々が毎日続いた。気が付くと四ヶ月間、休みはなかった。というより自分で休みを取らなかったという方が正しいのかもしれない。そうして第二種の資格では駄目だ。第一種を取らないと話にならない。ともよくいわれた。今の社会では通用しないしごきであった。
そうして一年が過ぎた。工期には間に合った。「よく頑張った。よく耐えた」とも言われた。嬉しかった。「何年かかってもいいから毎年、資格試験を受けろ」と言われた。その日から毎日、1時間の通勤時間、往復2時間の電車の中が勉強時間に変わった。そうして、第一種電気工事士、消防設備士それから数年後に第一級電気工事施工管理技士の資格を取った。今思うと、あんなにも厳しく言われたことは人生の中でなかったが、私の中のハングリー精神に火がついたことは事実だった。資格試験の報告を毎年、年賀状に書くようにしてその方に知らせた。資格が取れるたびに喜んでいただいた。
そうして三十七歳のときに独立をした。仕事を始めた時、志学ゼミに挨拶に行った。「塾の電球をすべて替えてくれ。小さな仕事だが頼む」と塾長に言われた。初めての仕事は志学ゼミであった。今も塾の照明の仕事をさせてもらっている。前の会社に了解を得て、ご縁でいただいた仕事をやらせていただきながら会社を軌道に乗せて行った。
自分の会社は仕事の能力で人事も給与も決まる組織にしたいと考えている。学歴は関係ない。やる気と根性だ。技術は日進月歩変わる。そこに対しても勉強をしていかないと時代から置いていかれる。本当の勉強は社会人になってからだ。社会に出て勉強をしていかないと置いていかれる。私は常に危機感を持っている。図面一つに関しても完璧なものはない。その人、その人その人によって異なる。だから人の図面を見せてもらうと勉強になる。
塾ではよくチーム制で授業が行われた。自分ひとりではない。自分がやらないと人に迷惑がかかる。その授業形態はまさに仕事に生かされている。
塾長の好きな言葉の一つに相田みつをさんの「一生勉強、一生青春」というのがある。まさに私に当てはまる大好きな言葉である。